深海



 時計の秒針がやけに煩い。
 時々あるだろ? そういう事って。
 テレビからは大音量で笑い声が聞こえてくるし、彼女の声が小さいわけでもない。
 でも、その中でも響くんだ。

 コチッ コチッ コチッって

 多分それは空虚な空気のせい。
 お互い会話をしながらも噛み合わない。
 テレビから聞こえる笑い声に苛ついてる自分がいるのに気付き、笑った。
 何に笑ったのかは判らない。

 テレビの中の役者に?

 何もしようとしない自分に?

 何も話さない彼女に?

 全部だろ?
 
 表面上は平静を装ってるつもりだけど、心中は穏やかではない。
 彼女の前ではこんな取り繕ったような表情は無意味だろう。
 それでも俺は続ける。
 それが俺の普通だったし、彼女もそれがわかってるから敢えて何も言わない。
 18年間一緒だったのだ。
 それくらいはわかるよ、俺だって。
 でも心は判らなかった。
 こんな時思う。

 ああ、所詮人は人だ。
 他人の心は判らないさ。
 
 同時に思う。

 だから人間なんだろ?
 だからこそ生きていけるのさ。

 心の中にまで他人に入られちゃやってられない。
 人はお互いとお互いが線を引いているからこそ成り立ってるんだ。



 それでも今だけは彼女の心が見たい。



 「ねえ、私が今からしようとしてる事、わかる?」
 「一応な。何でそうしたいかは知らない」
 「ん〜、私にもよくわからないわ。でも、そういうもんじゃない?」
 「そうかな? お前の事はわからないからな」
 「……あんたとも長かったね。親を除けば一番私の近くにいたのはあんただ」
 「それは俺も同じだ。それが当たり前だった」
 「まあ、それなりに面白かったと思うよ。一緒だと退屈しなかったし」
 「終わったような言い方をするなよ」
 「私はコレで終わりだもの」
 「俺はまだ続いていくの」
 「……いつもの事じゃない。コレで終わり」
 「今まで四回そうしてきた。五回目もある」
 「おかしな関係よね、私たち。四回付き合ってコレで四回目の別れ」
 「五回目を期待してるよ」
 「残念ながら、それはないでしょうね。きっと。わかってんでしょ?」
 「割り切れない事だってあるさ」
 「それが私か。嬉しい事言ってくれるわね」
 「お前は本当に全てを割り切ったやつだった。仕方ないものは仕方ない、と。俺もそうなりた
かった」
 「いいものじゃないわよ、こんな生き方。それにあんたには無理よ」
 「だから必死に追いかけたさ。お前がやった事は全部やった」
 「あんたが茶道や華道に手を出した時は、ほんとーに笑わせてもらったわ」
 「お前が好きなものは全部好きになろうとしたし、嫌いなものは嫌いになろうとした」
 「ま、そんなあんただから、私もあんたがやった事に手を出した」
 「お前が空手をやってみたいと聞いた時は意識が飛んでいくかと思ったよ」
 「あんたと私の決定的な違い、判る?」
 「いや、結局最後まで判らなかった」
 「女か男か、ってことよ」
 「……一理ある。でもそれでも――」
 


 「お前には勝ちたかった」
 「あんたには負けたくなかった」



 二人で思いっきり笑った。
 子供の時みたいに。
 今でも子供だけど、何も知らずに一緒になって遊んだ子供の時みたいに。
 彼女が側にあったビンの蓋を開けた。
 俺は何も言わない。
 止める権利は……あったかもしれない。
 それでもこいつのやりたい事だから。
 大量の錠剤を取り出すと、彼女は三回に分けて飲み干した。
 ビンを俺のほうに滑らす。
 ビンはきっちり俺の前で止まった。



 「どうする? あんたも私の真似をする?」
 「……いや、やめておくよ。お前と俺の道はもう別れた。お前の真似をする必要はなくなった

 「そ。やっとあんたも独り立ち、ってところかしら」
 「どうかな。真似はしなくても、忘れはしないと思う」
 「忘れちゃいなさい、こんな女なんか。後三十分もすればいなくなるわ」
 「それでもこの18年は消えない。誰かと18年一緒にいない限りはな」
 「何時までも引きずってると女の子は去って行っちゃうわよ」
 「その時はその時。お前との記憶を糧に生きていく」
 「……結局変わってないのね。寧ろ性質が悪くなったかも」
 「お前のせいだよ」
 「だとしても、そう思っているのはあなた。私には少しも責任はないわ」
 「わかってる。それでもだ」
 「あんたはこれからも続いていくんでしょ? だったら――」
 「お前の事は本当に好きだったからな。それにお前には『関係ない』だろ?」
 「そう、ね。全く、何時からそんなに大きな口が利けるようになったのかしら」
 「さてね。そだ、最後ついでに何か物くれ。思い出に残るようなもの」
 「いいわよ別に。私にはもう必要ないものばかりだから。自由に持っていきなさい」
 「ありがとう。それじゃあ――」


 「お前のココロをもらっていくよ」


 「バ、バカ!! 何くさい事言ってるのよ!!」
 「あははは、お前の焦る顔、はじめて見た」
 「全く、何処でそんな事覚えたんだか……」
 「それで、くれるの? くれないの?」
 「……さっき言ったでしょ。私には必要ないものばかりだから、って」
 「じゃあ、貰っていくよ」
 「勝手に……しなさい。……そろそろ、かしらね」
 「眠いか?」
 「ええ、そろそろ……ねむ、る……わ」
 「……おやすみ。世界で一番愛してる人」
 「ば…………か」



 最後まで彼女らしい言葉だった。
 少しだけ笑いたくなった。
 涙は出ない。
 これは確かに別れかもしれない。
 だけど、一人でも、愛しつづける事はできる。
 彼女の心は最後までわからなかった。
 それでも、ただ一つだけ。
 俺を愛していてくれた事だけ判ればいい。
 そっとキスをして俺は彼女を寝室に運んだ。
 彼女のお気に入りの包み込まれるようなウォータベットに体を横たえさせる。
 沈んでいく姿は海を連想させた。
 波のない海。
 深海。



 寝室から出た俺はそっとドアを閉めた。
 彼女を起こさないように。
 そして家に帰るために外へ出た。
 彼女のいない部屋から。
 最後のキスは今までで一番暖かかった。

 

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